EXHIBITION 展示・高島唱歌

[展示]

玄関 桐の木で作られた駕籠

二階 民具展示-1

二階 民具展示 -2 

三階 民具展示  

展示室-1

展示室-2

展示室-3

展示室-4

[内部資料]

 

教科書

江州白谷村~明細帳

オルガン  

石盤

地籍図

滋賀県立大学人間文化学部地域文化学科 市川教授 東教授 卒業生の大野沙織さんや大勢の学生さん、
社会福祉法人ゆたか会ほろんPCサークル等のご協力の中調査整理を行っています。
*調査中の資料の一部を公開しています。

[高島唱歌]

当館資料(明治初期の文部省音楽取調掛の唱歌集)の中から
「高島唱歌」を紹介します。

高島唱歌   大正八年制定
一  我らの住める高島は 昔かしこきすめらぎと 名に負う近江聖人の 生れ給いしよき地なり
二   東は琵琶の湖清く 西に連なる山青く 山城丹波越前や 若狭の国に隣せり
三   湖辺に沿うて南北に 田園広く開けつつ 面積四十餘方里  水陸共に幸多し
四   南は大溝この町は 分部氏世々の城下の地  世に知られたる探検家 近藤氏の墳墓あり
五   誰も一度は来て身よや 高島山の奥深く 岩間を落つる八渕の滝 たぐい稀なる奇観なり
六   白砂清く流れきて 水尾貫く鴨川の 橋のほとりの分かれより 沿うて下れば藤樹道
七   仰げば高し藤の花 昔ばかりか今も尚 残れる書院ゆかしみて 詣ずる人の絶間なし
八   道を尋ねて青柳の 北に出づれば安曇の里 泰山寺野は西南 硯石出す阿弥陀山
九   三尾の里とはその昔 天津日嗣をしろしたる 二十より六代のすめらぎの 天降りしつるかたみとて
十   御父命彦主人の 王の御墓と昔より 語り伝う常槃木の 木立尊き所あり
十一 安曇川筋の広瀬村 鮎釣る糸もおもしろし その水上は朽木谷 今は道路も開けたり
十二 近江古き朽木氏の 陣屋の跡や今いづこ 足利義春その昔 住みにしあとは興聖寺
十三 木立小暗き谷間より 筏を流す安曇川の その川口は舟木崎 鮎鱒鰣の魚場なり
十四 沖の白石打眺め 北に進めば新儀村  おさの音常に高島の 縮の本場と知られたり
十五 知るや知らずや世の人は 赤心報告鍔にほり 精献遺言を箸はしし 浅見絅斉生まれし地
十六 昿原雲に連りて 演習たえぬ饗庭村 耳をつんざく砲声や 剃刀かじの名も高し
十七 郡の中央今津港  小浜に通ずる若桜道 湖には通う蒸気船  大津長浜塩津まで
十八 郡衙その他の官署あり 公会堂は慶成館 衆議公論あつめつつ いよいよ進歩をはかるなり
十九 若狭路に沿う三谷村 ここは名叩き林産地 水坂越ゆれば天増川 北に走りて海に入る
二十 西近江路の川上の 小鮎すなどる石田川 郡の林のはじめなる 河内は西に遠からず
二一 北に進めば百瀬村 くぬぎの造林いと古く 今は水産試験場 養蚕業も盛んなり
二二 知内の川筋西庄村 牧野にあるは鷹飼の 斉頼流を開きてし 善積氏の墓どころ
二三 石灰出づる海津浦 東に突出す大崎は 段岩絶壁そば立ちて 湖辺に稀なる絶景よ
二四 前に浮べる竹生島 眺めるもあかぬ湖の上 沖も白帆のたえまなく 漕ぎゆくさまも面白や
二五 登る道筋剣熊を 進めば愛発敦賀道 関のとざさぬ御代なれば 昔の様の跡もなし
二六 誰もよくき聞け昔より われら祖先は勤勉の ほまれも高きその上に 道のおしえもあつかりき
二七 いざやはげめよ取る業を いざやみがけよ持つ徳を はげみがきて我が郡を 益々とませ庶無に


高島唱歌は大正8年(1919年)7月に文部省の認可を受け発行したものであって、当時の小学校児童は並んで登校する時には、 必ず歌ったものである。また、今から95年近く前の歌詞がすでに「高島はひとつ」と広域的な町づくりと広く郡民に親しまれた 高島唱歌でもあった。当時の時代背景が見えてくる。 

…学校(大正時代)

饗庭小学校(大正時代)


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